大学は必要か? 間違いなく必要
「スーパーグローバル大学に37校 国際化へ文科省選定」というようなニュースが、命名のインパクトもあって、ネット上でかなり話題になっている。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG26H03_W4A920C1CR0000/
金で大学を思うように操る文科省。
それに抗うこともできず、なんだかよくわからないような公募にも応募せざるを得ない大学の情けない姿。
そもそもスーパーグローバルな大学って何だ? 海外の教員や学生を招くことがいいことなのか?
疑問は絶えない。
で、たまに思うのは「そもそも大学って必要なの?」ということ。そもそも論。
インターネットがこれだけ普及して、知りたいことはいつでも知ることができる。
オープンコースウェアが登場して、自分だけでも学問を体系的に身に付けることができる。
そろそろ「大学なんていらない」という声が出てきそうな気がする。
もうとっくに出てきているか。。
じゃあ、「大学って不要か?」ということを、なんとなく考えてみた。
結論から言うと、「なくちゃ困る」ということなんだけど、考えたことをつらつらと。
まず、研究者は必要だろうか。
うん。研究者は必要。間違いなく。
火山の研究や地震の研究、気象のこと。将来の災害などに備えるための研究は絶えず続けていく必要があるだろう。
宇宙開発、核融合、人工知能。そんな、ちょっと先の未来の技術への絶えざる投資は文明の進化のために無くてはならないだろう。
医学、法学、土木、建築。日常の生活を安全に、人間と言う社会的生物の営みを支えるための知識は、無くてはならない。
文学、哲学、歴史学。人類がこれまでに気づいてきた、人としての営み。文化。それらを体系的にまとめるための研究は必要だろう。
数学、物理。あらゆる技術を支える基礎理論の研究は、決して疎かにしてはいけない。
そんなに大それたものでなくても、たとえばダンゴ虫にめちゃくちゃ詳しい研究者とか、
古典の特定の文献の解読に一生を捧げているような研究者とか、
消滅しかかっている言語のマイナーな文法について調べている研究者とか、
そういう研究者だって、日本と言う国が、世界に負けない「知」の力を保有するためには、なくてはならない存在だろう。
というふうに考えると、やっぱり研究をする人は大事。研究者は必要。
では、このような研究者の生活をどのように保護すべきだろうか。
一昔前のヨーロッパであれば、裕福な貴族がパトロンとなって研究者の生活を支えたという話があるかもしれないけど、
現代においての生活の保護とは、職を与えることだ。
ある程度まとまった数の研究者を組織的に雇用するための受け皿が必要だ。
全部、国立の研究所で雇用すればいい?
ダンゴ虫ばっかり研究している研究者とか、ちょー、マイナーな、何の役に立つかわからないような研究をしている人も全部?
さすがにそれは無理。「ずっと研究ばかりしてていいよ」とは、なかなか言えない。
なので、「好きに研究していいよ。だけど、他の仕事もしてね。」という形で仕事を与えることになる。
他の仕事というのは、極端な話、農業でも土木作業でも、なんでもかまわない。
だけど、研究が好きな人には、やはり「知」に関わる仕事をしてもらうのがふさわしい。
それが「大学の運営」。
研究していいけど、日本の学力を高めるための最高学府の運営もしてね。ということ。
大学の先生方が、研究は頑張るけど、授業やその他、もろもろの運営を「雑務」と感じているのは、やっぱり
「研究がしたい。だけど、それだけでは生きていけないので、おまけで仕事もしないと」
と考えているからかもしれない。
要するにだけど、
大学と言うのは、研究を推進する人材の雇用の場であり、知恵の貯蔵庫であり、
その一方で、教育を施して後進を育てる場でもあると言うことができると思う。
最初の疑問に戻ると、大学は必要。
研究者は必要。研究者の雇用の場として大学は必要。それから、人類の叡智を維持発展させる場として必要。
教育の場として必要か。という疑問については、今のシステムのままで本当に良いのか、良くないのならばどうすべきか、よくわからない。
いろいろな場所から集まった、同じ知的レベルを持つ人たちがグチャグチャと集まって、
なにかしら刺激を与え合う「場」としての価値は間違いなくあると思うけど、
「今のような教育」が、今後も必要であり続けるだろうかは、考える必要があると思う。
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