人工知能の研究ってなんだろう

ここしばらく「人工知能」の話題にことかかない。
SFの世界の話だった人工知能が、いよいよ現実味を帯びて、我々の日常生活に入ってくるようになった。


そんなわけで、「人工知能について勉強したい」と思うわけだけど、何を勉強したらよいのか、よくわからない。


まずは、機械学習ニューラルネット、という言葉が出てくるのだけど、それを勉強したら人工知能が作れるようになるかというと、
なんだか判別器を作っているだけにすぎなくて、それで「人間の様にふるまう知能」が作れるとは、とうてい思えない。


では、自然言語処理かと思って勉強すると、マルコフ連鎖とかベイズ推定で文章生成とかいっても、これって適当に単語を並べているだけで、とても「知能」があるとは思えない。一昔前に流行った「人工無能」の発展版?


ではでは、人工知能学会で発表されている研究を覗いてみようか。


論文一覧がこちらで確認できる。
人工知能学会論文誌


うわ。。てんでバラバラ、それぞれの研究が細かい内容すぎて全体像が全然見えてこない。


うーん。どうやったら人工知能の勉強ができるんだろうか。


と、悩むことしばらく。
最近になってようやく、「人工知能を勉強する」ということ自体がナンセンスであることに気づいた。


これをどうやって言語化して説明しようか、と悩むことしばらく。。


うん。「人工知能」を「物理」に置き換えるとわかりやすい。


「僕は人工知能に興味があります。人の知能を解明し、それを人工的に作り出そうという学問、人工知能に関する勉強をしたいです」

「僕は物理に興味があります。世の中の事象すべてを理論的に説明しようという学問、「物理」を勉強したいです」


人工知能について学ぶには、まず何を勉強すればいいですか?」

「物理を学ぶには、まず何を勉強すればいいですか?」


「そもそも「物理」という学問は無いよ。説明したい事象ごとに、それぞれの分野で研究が進んでいるんだよ。例えば、物体は変形しない剛体でできているとみなした時の古典力学、電気の性質を扱う電磁気学流体力学、これらは、実際の現象を観察して、それを数学の言葉で書き表そうという試みだね。もっとミクロな視点から考える、量子力学という分野もある。これらは、現実世界の現象を扱う点では共通しているけど、どれも独立していて、全てを説明できるような統一理論はないんだよ」

「そもそも「人工知能」という学問は無いよ。説明したい知的な表層ごとに、それぞれの分野で研究が進んでいるんだよ。例えば、画像に写っているものが何であるかを認識するための画像認識、人が発した音から情報を得るための音声認識、文字で表される情報を理解するための自然言語処理、各々の処理の認識精度を向上させるための基礎理論としての機械学習、そしてそれらの要素技術としてのクラスタリングニューラルネットワーク。大量のデータから効率よく学習するためのディープラーニングという分野もある。これらは、人間の知能を模倣するための研究という点では共通しているけど、どれも独立していて、全てを一度に実現するような統一理論はないんだよ」


「僕は物理を学びたいです」「では、何に興味があるの?電磁気学流体力学量子力学?」「え。えっ。??」

「僕は人工知能を学びたいです」「では、何に興味があるの?画像認識?自然言語処理音声認識?」「え。えっ。??」

大学での海外留学の必須化に賛成

最近では、大学関係の話題が多い。それほど、大学の在り方が問われる時代になったということだろう。


少しさかのぼって、「大学での海外留学必修化」の話題がある。

一橋大、新入生の留学必修に 立教や早稲田も  :日本経済新聞


この内容には、よくやった。と言いたい。私は賛同する。


ネット上のコメントは、この案を批判するものばかりなので(まぁ、何を提案しても、否定されるのだろう)、思うところを書いてみる。


多くは「4週間」という短期間では意味が無い。という観点からの指摘が多い。それでは、何も学べない、と主張する。


いやちがう。
若者の感受性を侮ってはいけない。


若い時の4週間は、海外を、世界を肌で知るには十分な期間である。


私は、ちょうど二十歳のときに4週間だけ海外滞在を経験した。そこで得たものは非常に大きく、その後の人生に大きな影響を与えている。
それ以降、何度も海外に出ているが、最初に経験した、この4週間ほどの刺激が大きかった期間はない。


感受性の高い、若いころの経験は、世間ずれした大人になってからの経験の何倍もの価値がある。



4週間で何が学べるだろうか。


流暢な英語を話せるようになるのは無理だ。そんなのは、後からでいい。
英語で学問を習得するのは無理だ。そんなのは、母語で学習すればいい。幸い今は、日本語で高度な学問を学ぶことができる。


4週間アメリカに行けば、
・うわべの社交辞令に上手に隠された、肌の色の違いによる陰鬱な差別意識の存在を感じることができる
・英語が上手でないことで、まったく相手にされないか、または蔑視の目で見られる嫌な経験をすることができる
・綺麗な観光地から、一歩奥に入った路地の危険な雰囲気を感じることができる
・店員の横柄な態度に驚かされ、日本のサービスがなんと優れたものであるかを実感できる
・弱者からぼったくろうとする、悪質なサービスの存在に気づくことができる
・映画館に行けば、どれほど肥満が蔓延しているかを隣の席で実感し、映画の鑑賞の仕方1つとっても、全然日本と違うことがわかる
・紙コップを手に持った浮浪者をたくさん目にし、格差の大きさを身近に感じることができる
・多種多様な文化的背景を持った人たちが、様々な国から、様々な事情で渡米してきている。ゆるい人生を送って来た自分と、人生に対する真剣さが違う人々の気概を感じるとることができる。

4週間中国に行けば
・ネットで見聞するほどには日本人に対する反日感情が無いことに気づく
・上海、北京は、東京と変わらないほどに、むしろ東京以上に都会であることを肌で感じることができる
・高齢者が少なく、若者が多いこと。日本と一緒で今の若者はみんなスマホをいじっていること。地下鉄の中で、障碍者がハーモニカを演奏してチップをもらっていること。本当にネット検閲されていて、アクセスできないページが存在すること。くっちゃくちゃの汚いお札でもみんな気にしないこと。そんな、些細なことにも驚きが伴う。


日本で当たり前と思っていたことが、実はそうではなかった、という気づきが大事だ。

日本に閉じこもってインターネットで情報検索しているだけでは、
・世界の「くうき」を感じること、
・日本を客観的に見ること、
この大事なことができない。


海外留学の対象ではないだろうけど、
アフリカやインド、中東やモンゴル、そんな異文化の国に行けば「人生が変わった」と言えるような刺激も得られるだろう。
そして、そのような刺激を得られるのは、20代の多感な時期以外に無い。

G型L型大学の区分けはいたしかたない

完全に出遅れたけど、文部科学省の会議で提案されたという、大学をG型とL型に区分けするべきという案について思うことを書いてみる。

(出遅れたというのは、条件反射的に賛成・反対するのではなく、自分なりに考えたということ。)

G型は世界で通じるグローバル人材を、L型はローカルな分野で活躍できる人材を育てることを目指すべきという。

それ以上に詳しいことは、ネット上でさんざん話題になっているから書かない。
元の資料はこちらにある。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/10/23/1352719_4.pdf


L型は、一言で言ってしまえば職業訓練校であり、そんなことは専門学校で教えるべき内容だ。という意見が多い。これには賛同する。


そしてまた、L型大学はもはや「大学」ではない。というのにも賛同する。


従って、「今のままで良い」とい結論になるのは、ちょっと違う。
もはや、「今のままではよくない」のである。だからこんな極端な提案が出てくる。
文部科学省が自らこんなことは言えないので、こんな発言をするような人物を委員に入れたのだろう。

だったら、そんな職業訓練校は大学の看板を下ろすべきと言う考えも当然ある。
これは正論だけど、現実的でない。私は、大学は必要だと考える。


簡潔に言ってしまえば、今のように大学生全員が、
・4年間もかけて、
・身につくかどうかわからないような、高度な学問を身につけるための講義を、
・聴いているかどうかもわからない状況で、
・ほっておくような余裕が、
・今の日本には無い
ということ。


高齢化が極端に進み、ますます生産年齢人口が減少する中で、とにかく若者には、すぐに国のためになるような労働をしてもらわなくてはならない。
認めたくない事実である。


大学で過ごす4年間は、たとえ学問の習得や、学術分野への貢献に失敗したとしても、多くの若者と触れ合い、刺激しあって、自分を見つめ、それは本人にとって、人生を豊かにする貴重な期間であろう。
しかし、そのようなぜいたくは、もはや許されない。それほど、日本は貧しくなったのだということだ。


現実的な話として、そのほとんどの学生が、世間が言うところの「大学」レベルの学力を有していない。
たとえばセンター試験の平均点を見てみよう。

平成26年度 大学入試センター試験 平均点等一覧

マークシートで回答させるような、私から言わせれば「あんなレベルの数学」で正答率50%程度である。
私立文系は数学を受験しないであろうから、理系の学生が、である。理系の学生の平均が、である。
そして、どんな点数であれ、希望すればほぼ100%、どこかの「大学」には入れる。


そんな程度の数学の力で、理工系大学の教養レベルで習う微分方程式複素関数論が理解できるであろうか。
微分方程式複素関数論ができなければ、物理で学習する電磁気学流体力学だって、全滅であろう。


文系の話は専門外なのでわからないが、英語の読み書きや、日本文学をたしなむ程度の教養なくして、英文学なぞ学んでもしかたないと言われても反論できるだろうか。


現実問題として、本来あるべき理想の大学の姿を、今の全ての大学で追及するのは無理である。


これまで、日本は豊かであったのだろう。それでも、だましだまし、世間はそれを見て見ないふりをしてきた。


しかし、悲しいことに、今はそんな余裕もない。若者には頑張って労働してもらわないとならないのだ。


と言って、過半の大学を潰すのは現実的ではない。看板は「大学」のままに、下位の大学には、中身を職業訓練校にしてもらおう。というのが、今回のL型大学の話なのだと思う。


日本は以前ほど豊かではない、という現実があるのであれば、この提案は取りうる1つの現実的な解であろう。